香月泰男 山吹

山吹 水彩 クレヨン紙

山口県に開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。
山口県立大津中学校(現・山口県立大津高等学校)卒業後、川端美術学校を経て
1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。
1936年美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。
1942年太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
1945年ソ連に抑留され、シベリア、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが原体験となり、その後の作品全体の主題・背景となる。
1947年シベリア抑留から引き揚げ、下関高等女学校へ復職。
1948年郷里の三隅へ戻り、山口県立深川高等女学校(後に大津中学校と統合、現・大津高等学校)に転任。
1960年大津高等学校を依願退職。その後しばらくは創作活動に専念していたが、
1966年に九州産業大学に新設された芸術学部油絵科の主任教授を委嘱される。
1969年「シベリア・シリーズ」で第1回日本芸術大賞を受賞。
1974年心筋梗塞にて死去。
没後、遺族によりシベリア・シリーズ57点のうち45点を山口県へ寄贈、残り8点が山口県に寄託され、1979年開館の山口県立美術館に展示されている。
泰男は、創作活動のほとんどを「<私の>地球」と語った三隅町の自宅で行っていた。その泰男の功績をたたえる目的で、1993年10月26日に、生家に近い三隅町湯免に三隅町立香月美術館として開館。2005年に三隅町の合併により香月泰男美術館に改名の上、長門市に運営が移管された。最晩年まで泰男の手元にあった作品や、香月のアトリエ(復元)などが展示されている。
なお、香月泰男美術館ではシベリア・シリーズの一部について常設展示を県に希望しているが、専属の学芸員が館にいないことを理由とし山口県が難色を示しており、完成作の展示が出来ない(原画のみが展示されている)。
また画作の一方で、油絵の作品の他、晩年は海外での風景作品や身の回りの針金、空き缶などを再利用して製作した子どものためのおもちゃが複数あり、これらも同様に展示されている。
定期的に「<私の>○○展」という企画展を開催しているほか、小中学生を対象とした絵画コンクール「香月泰男ジュニア大賞絵画展」を主催している。