小林和作 乗鞍中腹より上高地方面を望む SM

小林和作  乗鞍中腹より上高地方面を望む  SM

プロフィール

1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。京都市立美術工芸学校卒。京都市立絵画専門学校卒。同校在学中、弟四回文部省展覧会(文展)に初入選。
大正7年(1918年)、日本画から洋画に転向し、大正9年(1920年)鹿子木孟郎の画塾に通う。
翌年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。
大正13年(1924年)、第2回春陽会に「夏の果実」を出品し初入選。
昭和2年(1927年)、春陽会会員となる。
昭和3年(1928年)から4年(1929年)まで渡欧。
昭和9年(1934年)春陽会を脱会し独立美術協会会員となり、広島県尾道市に移り住む。
以後亡くなるまで40年間尾道にあって創作活動を続ける一方、地方美術界に於いて指導的役割を果たす。また文化の振興にも意を注ぎ、物心両面から援助した。
これらの功績から昭和27年(1952年)中国文化賞、昭和28年(1953年)芸術選奨文部大臣賞、昭和46年(1971年)勲三等旭日中綬章などを受けた。尾道市名誉市民、秋穂町名誉町民。

広島に原爆が投下された昭和20年(1945年)8月6日には、訪れていた郷里の山口から午前4時の汽車で尾道に帰る予定だったが、急用ができたため午前8時に乗車。その15分後に原爆が投下され汽車が緊急停車し、被爆の難を逃れている。

昭和49年(1974年)、広島での写生旅行中に誤って転倒し、頭を強打して死去。享年86。命日の11月4日には毎年、西國寺で和作忌が開かれている。

「天地豊麗」という言葉を好んで使った。